2010年 03月 26日
宗匠から学んだこと その2 |
連詩とは我執を棄てて全体の調和に奉仕する文学形式であるという。
ホームランを狙うばかりではなく、時にはバントをして塁上の駒を進め自らは潔く散るべし
と宗匠は説く。
しかし、である。
それでは宗匠の書いた詩篇のなかに、全体に奉仕するあまり自らを殺したものがあるかというと、ないのである。どれも紛れもなく宗匠の刻印が押されていて、それだけを取り出しても十分に詩として成立するのである。
これはいったいどういうことか。
思うに、詩の最小単位をどこに置くか、ということではあるまいか。
私などは詩(の成立)を作品単位で捉えている。したがって、連詩全体が一編の詩であると言われれば、自分のパートは単なる材料に過ぎないと割り切ってしまいがちである。早い話がそこに新聞記事を持ってきても、全体のなかにうまくはまっていりゃそれでいいではないかと思ってしまう。
ところが、である。
宗匠の場合は、どうやら詩が語単位で作動しているらしいのである。だから全体の流れに奉仕すべく添えられた一行二行のなかにすでに詩が宿っている。言葉が詩の波動をうけてなまめかしく蠕動している。
今回は連詩の真っ最中にこのことにはたと気づいた。
気づいたからといってどうしようもないのであるが、連詩が詩の教室として理想的な場であることを改めて確信したのであった。
by foryoureyes
| 2010-03-26 01:38