2011年 05月 23日
『家族の午後』と『移動と律動と眩暈と』 |
久しぶりに我が家で迎える日曜日。
娘はトスカーナの石工工房に二週間こもって大理石相手に彫刻の勉強。10年生になってから毎年一回行われる課外研修活動のこれが仕上げなのだそうだ。ちなみに最初の年は農場で社会奉仕の乳搾り、昨年は有機食品のお店で職業訓練、そして今年が芸術活動という三部作。ぜいたくなプログラムである。
もうずいぶん前にいただいたまま礼状も感想も送っていなかった細見和之の最新詩集『家族の午後』を読み返し、そのまま最近届いたばかりの野村喜和夫の散文集『移動と律動と眩暈と』を読み始める。
細見さんの詩は、社会学者そして批評家としての細見さんから、抗う術もなくはみ出してしまう生活者としての細見さんの肉声である。生身の自分を曝け出して、指の間からこぼれおちてゆく「生」に確かな形を与えようとするひとりの男の格闘の痕。それは読む者の胸を打たずにはいられないが、その瞬間生身の細見さんはどこかへ消え去り、学者でも批評家でも生活者でもない、無私なる表現だけが残っている。
野村さんの散文集の冒頭は「日本語エクソダス」という刺激に満ちた詩学断章。日本語との馴れ合いの関係を拒否し、日本語を「誰も書いたことがないような、それでいてなつかしい、そんな日本語を夢見るのでなければならぬ」という野望が表明されている。ほとんど一段落ごとに頷き、煽られ、ひとりで興奮していたら突然「言語ジャック」への言及が登場してびっくりした。若干誉め過ぎのきらいはあるが、野村さんは私の意図を完璧に見抜いている。有り難いことである。
by foryoureyes
| 2011-05-23 04:44